「2度目の退職と絵本出版」

1999年、旭川高等技術専門学院造形デザイン科に入校。
2年制に移行したため専門学校的な要素が強くなったようで、高校からの新卒者がほとんどの中、社会人経験者は4人。その中でも最年長でした。                                            骨を埋める覚悟があったかは覚えていませんが、それなりに決意を持って来たので、若い子達と同じように過ごすわけにはいきませんでした。
毎日、授業が始まる前と終わったあとには刃物を研ぎ、日曜日にも家で研ぐ練習は怠らないようにしました。
家に帰ってからも読む本は木工関係のもので、職訓時代は文字通り木工浸けの日々でした。

この辺り(旭川・東川町)の家具工場は現在でも土曜日は隔週休みなので、見学に行って過ごしました。
アートクラフト・バウ工房にも押しかけ見習いを気取り、ずいぶんと迷惑を掛けてしまったと思っています。
バウ工房・大門嚴氏はそんな私にも優しくアドバイスをしてくれ、今でも心の師匠と勝手に思わせていただいています。
そんな努力もあってか?卒業制作で作ったパソコン用のデスク・椅子・ワゴンを、日本の椅子研究の第一人者・織田憲嗣 北海道東海大学教授に評価してもらったことは自信になりました。

卒業後、旭川市内にある家具会社に就職しました。
担当になったのは、他社からの特注テーブル。ナラの柾目の45mmの厚材から作る高級テーブルでした。
今では材料が無いので廃盤になっている、たいへん贅沢なものでした。

職業訓練校に行っているときには、いろいろな家具会社を見学させてもらい、知ったつもりでいましたが、入社して実際に自分で作業してみて一番驚いたのは木の使い方でした・・・。
土場のパレットに積んである木材の山があっという間になくなってゆく。そして、気がついたら、トラックが来て次のパレットを置いてゆく。

工場の中に入れた板は、製品に応じた長さ・巾に切られます。天然の材料である木材は全く同じ幅ではありません(巾決め材は別)。
元の板の長さや巾からぴったり取れるものもあれば、足りないもの、余るものもあります。

一番多く端材が出る工程は、一番最初の親板を必要寸法+30mmに粗切りするクロスカットです。
ここでは巾の広さに関わらず、長さが300mm以下になった材料は惜しげもなく、ばんばん捨てられていました。
初めて見たときは、思わず「あれ、本当に捨てちゃうんですか!?」と聞いてしまいました。
長く勤めている人には、「何言ってんだ?コイツ」と思われたようです。

毎日やっていればどんどん溜まるし、置き場もすぐに無くなる。これで何作んだ?しょうがないべや。

なんでこんなに立派な端材(なんたる矛盾!)を捨ててしまうのだろう・・・。
もったいないなぁ・・・。
すぐに使うあてはありませんでしたが、少しずつ、家の物置に持って帰り始めました。

入社してすぐにひどいパワハラに遭い、かなり精神的にやられてしまい、
もう辞めようと思ったことは一度だけではありませんでした。
仕事も覚えて攻撃される要素が少なくなっていくと、少しずつでしたが回復してゆくことができました。

アルバイトなどでもいろいろな所で働きましたが、こんな人には会ったことがありませんでした。
これまでは人に恵まれていたんだなぁと。勉強させてもらいましたが、もう二度とゴメンです・・・。

担当していた特注テーブルは大手家具会社からの仕事で、全国各地の営業所から受注したものでした。
ひと月に2ロットで、一回に10枚とかになると、納期に間に合わせるために残業してこなすのがやっとに・・・。
何処で、どんな人が使うのかもわからない物を納期までに納める。
手を抜くという事はありませんが、心を込めて、というモチベーションを保つのは難しかったです。
いつしか、厳しい検品に通ればOK、という感覚になっている自分に気がつきました。

仕事ってそんなもんだよ、と多くの人は言います。
製造業ではそうじゃない仕事の方が多いでしょ、と。
確かにその通りだけど・・・。

在職中、何回か、知り合いに頼まれてテーブルなどを作りました。
知り合いだからという事もありますが、それ以上に「使う人の顔がわかる家具」という事で、明らかにモチベーションは違ったのを感じました。
やっぱり、こうあるべきだよなぁ・・・。

2008年に仕事中に指を欠損する怪我をしてしまいました。
家具製造は非常に労働災害の多い業種で、あの会社では2本やったらしいぞ、1本でよかったという会話が、
当たり前にされる雰囲気がとても怖くなり、木工から離れて他の道はないものかと考えていました。

安全な仕事で、会社勤めではなくて・・・。
絵本なんていいなぁ・・・。
入院している時、小さい紙に絵を描いて、見舞いに来てくれる当時幼稚園の年長だった息子に聞いてもらい、
これはいけるのかな?と。
出版した絵本の原案はこの時にできていました。

入院していた時には、どうやったら本が出せるかという事も全く知らないのに、
今思い返してみても、どうしてこういう考えになったのかわかりません・・・。
不遜。
本気で絵本作家になりたい方にとって、こんなに失礼なことはないと思います・・・。

退院後、会社に行くも、包帯は巻いたまま。
片手でできる作業を、と言われても製造現場ではある訳がなく、肩身の狭い思いをしていました。
作業ができるようになってからも、機械の音や木が切り落ちるのをみると動悸がしてしまい、
次のあてもないままに、退職を決意しました。