就職活動が始まり、もう逃げられないかな。
さて、自分にはどのような仕事が向いているのだろうか。どのように生きてゆけば良いか。
考えても、特技と思えることは皆無でした。
履歴書にある特技を書く欄が、「お前には特技なんかないよ」と言っているようで嫌だったことを思い出します。
人よりも優れていることは何一つ無い。だけど、とりあえず働かなければならないなぁ。大学にも行かせてもらったし・・・。
セミナーを受けてみるが、これといって興味が沸くところは何処も無い。
果たして自分は会社企業の利益のために働くことができるだろうか?
そんな疑問もわいてきました。
24時間働けるジャパニーズビジネスマンには、きっとなれないだろうなぁ、と。
そんななかで出会ったのが生活クラブ生活協同組合。
北海道にはA-COOPという協同組合(農協)があるのは知っていました。
そうか、こういう非営利団体というのがあるのか、と知ってからは、企業はまったく受けず、
コープ神奈川と生活クラブ神奈川の違いも理解しないまま、生活クラブに受かるつもりでいました。
めでたく内定をもらい、勤務地は葉山センターに決まりました。
しかし、知識の浅い無知な若造は、生協活動がどのようなものか、よく分かっていませんでした。
モラトリアムな4年間をすごし、社会に対して問題意識もほとんど持たず、自宅から仕事に通い、生活するという困難も感じない、
今思えばたいへん裕福に思える若者=バカモノは、「ものを間違いなく届ける」という仕事にやりがいを感じることができず、
なにか具体的な物質(モノ)を持って「これがオレの仕事」と言って格好をつけたかったのだと思います。
(社会経験をいろいろと積んだ今は、生活クラブの生協活動がどれほど大切なことかという事が理解できました。恥ずかしい・・・。)
海外にも行ってみたいと思っていましたが、自分の住んでいる国のことも良く知らないのだから、まずは日本を見てみたいとも思っていました。
バイクでは愛媛から神奈川まで20時間走り続けて帰ってきてしまった事があり、エンジンがついていれば走れてしまうので、
自転車で日本を廻ってみたいと思うようになっていました。
ただ若かった。知識も経験も想像力も乏しい、体力と可能性だけしか持っていないだけの自分。
ただそれだけだった様な気がします。それが若さとも言えますが・・・。
今につながるような、明確なビジョンは持っていませんでした。
行けばなんとかなるだろう。そこでまた考えればいいや、と。
3年勤めた生活クラブ生協を辞め、1997年7月自転車で神奈川を出発しました。